大阪市中央区の空堀界隈でまちづくりをおこなっている団体です

空堀今昔エピソードマップ

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筋・通り編

谷町筋

・豊臣秀吉の大坂城築城後に刀鍛冶や鎧屋などが集まり、明治以降は機械や工具の問屋などが軒を連ねて繁栄していた。当時でも珍しい石畳敷きで道幅は4m程度であった。1785年に万屋喜右衛門が古物金物商を開いたのが始まりという説も・・・)

・昭和45年の拡幅工事があるまでは地道。戦後、市の財政も困窮していたので、地元でお金を集めてコンクリート舗装した。

●谷町線拡幅前、終戦後は辻で盆踊りしていた。

・谷町4、5丁目は広かった。6丁目までは市電が通っていたが、それより南は本当に狭かった。

・拡幅工事については、地主・借地人・家主・借家人等それぞれの権利関係がありたいへんであったが、万博という目的があって一気にやった。

・昭和40年ごろは空堀商店街のアーケードは谷町筋もつながっていた。

上町筋

・路面電車が走っていて、大水がきたときは浸水しないように上町筋に路面電車が集結した。

●市電駅の「上二」停留所(旧上町二丁目 現上本町1交差点)が長堀通との交差点にあった。

・旧上町二丁目は大阪で最も地盤が高く、「たらい流し」と呼ばれた。 

●現上本町一丁目には市バスの車庫があった。(現関電会館)

松屋町筋

・かつて菓子屋(「かしんや)と呼ばれていた)が栄えていたころは、町全体にあまったるいにおいが流れ、小僧からおかみさんまで、一家総動員の菓子づくりをしていた。

・昭和初期に道路拡幅が始まり、菓子屋約80軒は御蔵跡町(現 日本橋)の松坂屋(現 高島屋東別館)近くに集団移転。その後、菓子屋は徐々に減り、人形とおもちゃの問屋街へと変わっていった。

・松屋町筋にお菓子屋が多いので、周辺にはお菓子を入れる箱、包む包装紙を刷る工場も多かった。印刷業が多いのもこれがもとである。

・「まっちゃまち・かしんや、てらまち・ボーズ」と子どもの頃歌っていた

・天王寺動物園が「本町の博物場」から移転する際(大正5、6年)、当時は運搬手段が無く、象は狭い道を自ら歩いて移動した

・松屋町あたりに検査員時代の松下幸之助が棲んでいて検査に回っていた。

 長堀通り

●明治の末期に長堀通はできた。末吉橋よりまっすぐ東に長堀通りを通すのに市が立ち退きをかけたが、当時の町の有力者の屋敷があったため現在のように曲がったと言われている。

・昭和36年10月末限りで、長堀の東西線が電車からトロリーバスに切り替えられた

・東横堀川沿いの筋との交差点に市電の末吉橋駅があった。

・市電唱歌「左に折れて佐野屋橋、心斎、三休、長堀の橋々過ぎて板屋橋、末吉橋こそ終点よ」末吉橋から東へ延長したのは大正の初め頃。

・毎日、市電の末吉橋の停留所から学徒動員で通っていた。クボタで特殊専攻隊の部品を作っていた。

空堀通り

・空堀通りは生駒町大道と呼ばれ、江戸中期から町家が建ち始め、明治時代には商店街が形成された。延命地蔵の縁日である4の日の夜店・民営常設の田島長市場・骨屋町筋門の公設の賑町市場により商店街は年々盛んになり、大正末には沿道の軒切りが行われ、通りの幅は4mから6mに広がった。戦後は空襲の被害も軽く、昭和20年には市内で初めての福引売り出しにより人気の商店街として賑った。

・松屋町筋から上本町の向こうの玉造までずーっと商店街だった。上本町から向こうは空襲で焼けてしまったから面影ない。玉造から新橋、鶴橋までずっと商店街が並んでいた。

・空堀商店街は真ん中が煉瓦敷きで両側の歩道部分が石畳だった。

●電気屋が朝顔型のラッパを表通りに向けてラジオを流していて、珍しい為、人だかりになっていた。(地元の方の思い出談)

・月の毎の四の日の夜店で、砂糖水を煮詰めて泡立ってきた時、耳かきに一杯ぐらいの重曹をすかさず入れてかき回すと、小鍋の中で膨れて表面がはぜ割れる「カラメル焼き」が子供のころ楽しみだった。(地元の方の思い出談)

・もともと大阪城の南は今の空堀商店街の辺りまでの広大な敷地をしめていたが、松平忠明により縮小された。それまでは、城域内に武家屋敷、屯所、武器倉庫、食料倉庫などが点在していた。

楠通り

・「墓の谷筋(はかんたにすじ)」と呼ばれ、お寺の屋敷から楠が欝蒼としておい茂り北側の細い道路を覆いかぶせて、道の南側はお寺の土塀で古い石垣をつんだ土塀がくずれかけ、その隙間から墓石がちらちら見えて暗い所であった。

●道の真ん中に立っている楠は、「楠大名神」や「楠玉社(くすたましゃ)」などと呼ばれ、祀られている。この神木は、もともとこの場所にあった本照寺の境内に植えられていた。1937年の道路拡張工事の際、伐採される予定だったが、クスノキには繁栄をもたらす蛇・巳(みい)さんが棲むので「タタリが起こる」と畏れられたことから、道の真ん中にその姿を残すことになった。

・空堀通りは生駒町大道と呼ばれ、江戸中期から町家が建ち始め、明治時代には商店街が形成された。延命地蔵の縁日である4の日の夜店・民営常設の田島長市場・骨屋町筋門の公設の賑町市場により商店街は年々盛んになり、大正末には沿道の軒切りが行われ、通りの幅は4mから6mに広がった。戦後は空襲の被害も軽く、昭和20年には市内で初めての福引売り出しにより人気の商店街として賑った。

・松屋町筋から上本町の向こうの玉造までずーっと商店街だった。上本町から向こうは空襲で焼けてしまったから面影ない。玉造から新橋、鶴橋までずっと商店街が並んでいた。

・空堀商店街は真ん中が煉瓦敷きで両側の歩道部分が石畳だった。

●電気屋⑤が朝顔型のラッパを表通りに向けてラジオを流していて、珍しい為、人だかりになっていた。(地元の方の思い出談)

・月の毎の四の日の夜店で、砂糖水を煮詰めて泡立ってきた時、耳かきに一杯ぐらいの重曹をすかさず入れてかき回すと、小鍋の中で膨れて表面がはぜ割れる「カラメル焼き」が子供のころ楽しみだった。(地元の方の思い出談)

・もともと大阪城の南は今の空堀商店街の辺りまでの広大な敷地をしめていたが、松平忠明により縮小された。それまでは、城域内に武家屋敷、屯所、武器倉庫、食料倉庫などが点在していた。

旧筋編

御祓い筋・善安筋

・御用瓦師であった寺島家による瓦の土取場であったため、高低差のある地形になったといわれる。江戸城に約2カ月間で300万枚の瓦を納品したという記録もある。「其の土最も強くして、色青く瓦に焼て美しく響あたかも鐘のごとし。故に瓦においては海内最上とす」(津名所図会大成)土を取り尽くしたこと、瓦の需要が減少したことにより、土取場の跡は借家に使われ、江戸中期からは広く建家が行われたが表長屋の裏手には広々と空地が残っていた。

・善安筋の、桃園公園の前から商店街への坂は、昔の大阪城の外堀を冬の陣の後、急速に堀を埋めた為といわれる。昔は石畳の坂だった。

・善安筋などの町筋が真北よりふっている(斜めになっている)のは町が古い証し。

骨屋町筋・御祓い筋

・明治初期には多くの蝋製造業者が居住。明治末期になると電球が普及、日本髪がすたれ蝋の需要が減少したのに対し、工業化で住宅需要が高まると製蝋業者は長屋の裏手の蝋のさらし場に路地を張り巡らせ長屋を建てて貸家経営に転業した。

熊野街

・今の天満の八軒屋浜から御祓い筋・安堂寺町・五十軒筋を経、空堀通りを横切り上町中学校前を通って四天王寺・住吉大社を経て和歌山の熊野三山に至る古代の道。

五十軒筋

・近世の松平忠明による大阪復興と市街地開発の折に同心たちの静かな五十軒の武家屋敷が並んだ。

坂編

観音坂

●かつて、この坂を登ったところに「和勝院」という観音さんを本尊とする寺があった。境内には藤棚があり、見事な藤の花が咲いたため、「藤の棚観音」とも呼ばれる名所であった。藤は、子どもが池で溺死し、それを悼んで子が好きだった藤の花を池のそばに植えて弔ったのが由来。『曽根崎心中』ではおはつが今生への未練を断ち切り来世で結ばれたいと藤の棚観音にやってくる。また、『好色一代女』では高貴な姫君だった主人公が流れ着くのが藤棚観音である。

「観音の庭に咲たる 藤の花 とりもなおさず 花の瓔珞(ようらく) 

金毘羅坂

●かつて坂の西側に「空堀の金毘羅はん」と呼ばれた名高い金毘羅宮があった。日本橋法案寺の下の金比羅、生玉持明院の上の金比羅に対し、中の金比羅と言われ、大阪三金比羅の一つであった。東と北に門があり、お堂は東向きで、大きな銀杏の木があった。江戸時代には、惣構えであった窪地を越えて石段の金毘羅坂からお堂へと渡る橋がかけられ『弘法の投げ橋』と呼ばれていた。今は空堀通りから金毘羅坂へ下る左側に百度石、右側に石標を残すのみである。

・このあたりの道路の南側は崖で低くなっていたが、これを利用して八島地下食堂があった。上の方は「カフェー」(いまでいうバーか洋酒喫茶)であった。

・金毘羅さんの銀杏の木と浅田米穀店と銭湯の間の銀杏の木が雌雄であった。 

温泉坂

・空堀通りから上町中学校の前の坂道

・桃谷湯という銭湯の建物が残る。

 

旧町名編

桃谷町(現上本町西1丁目付近)

・昭和の始めまで、火見櫓のある与力同心屋敷があった

・あちこちに徳川時代の侍屋敷の土塀もあった(北桃谷町)

・桃谷の名称の由来摂津奇観巻之35に「安永の頃(1772)上本町札の辻より西へ出る一帯の土取場へ桃を植え、世俗もも谷と呼ぶ。更に東南の地にも桃を植え」とあり。 

田島町(現谷町7丁目付近)

・一面、桃や杏畑だった。

・大正10年頃から道幅を拡げる為の「軒切り」が行われた。

・戦争で爆弾が落ちて、お父さんがいつもと違う防空壕に入ったら生き埋めになりかけた。向かいのお嬢さんはなくなった。消防署の角の電信柱に血まみれの自転車がひっかかった。(地元の方の思い出談)

・ここらへんでパン屋さんの第一号の店があり、イースト菌がプーンと匂ってものすごいおいしそうな香りがしていた。 (地元の方の思い出談)

内安堂寺町(現安堂寺町周辺)

●直木三十五と花月亭九里丸師匠が子供の頃に石を投げあい喧嘩した崖

瓦屋町(現瓦屋町付近)

・松屋町筋のお菓子屋への卸屋がお菓子を作っていた。

・こどものころ1銭ずつ出し合って、10銭集まればカステラの端切れで作ったラスクを新聞紙に包んでくれた。みんな寄って分けていた。 (地元の方の思い出談)

札の辻町

●空堀通りと上町筋の辻。現在の上本町3丁目あたりに明治新政府まで、高札が辻の南西角に立てられていた。

スポット編

澤井亭

・善安筋(ぜんなんすじ)を空堀通りへ向かって坂を登ったところにある建物はかつては澤井亭という寄席で、野漠が冒頭に出てくる「らくだ」や高津神社が出てくる「高津の富」などが演じられた。この建物は屋根が入母屋造りになっており、さらに越屋根もついた立派なものである。喜楽亭など空堀通りの昔のまちなみは「大阪市住まいのミュージアム」に模型として再現されている。

・落語、漫才、奇術、「にわか」などが夕刻から始まった。小さい舞台に畳敷きの平土間、それに両桟敷と2階席もあってこじんまりとしたよい小屋であった。木でできた下足札をもって中へ入ると、お茶子さんが唆布団を持ってついてきて場どりをしてくれる。木戸銭とは別に座布団代などがあった。

・戦中⇒エンタツアチャコ、戦争末期⇒音楽は少なかったが浪曲は多かった、戦後⇒ダイラケ(中田ダイマルラケット)

・澤井亭のほかに寄席は、松屋町の「松の席」、谷町6丁目に「谷六館」(薄病院を北へ少し行くと東へ桃谷に抜ける横町でその中間の北側)、上本町二丁目に「富貴席」があった。

ノバク

●桃園小学校の辺り(現桃園公園)

・瓦の土取り場の頃、一面の野原でバクチ(博打)が流行っていたから「ノバク」説と、たくさんの人が野原に幕を張って住んでいたので「ノマク」⇒「ノバク」となった。

・瓦の干し場もあちこちにあって、風のきつい日は瓦が木の葉のように舞い上がっていた。 

庚申堂

・上町中学校前あたりに庚申堂があった。昔は「所払い」という刑罰があり、一定期間中は大坂三郷内から追放になるというものであった。墓の谷筋より南は東成郡であったため、庚申堂の近くに木戸があり、所払いになったものはここで、番太と呼ばれる役人に尻たたきをされてから追放された。番太に渡す袖の下によっては尻たたきは手加減が相当あったそうである。また木戸から出たあたりの細路地には赤行燈の飲屋があり、見送りに来た人や迎えに来た人たちとの酒の酌み交わしがあり、賑やかな雰囲気も醸し出した。 

上町中学校

・昔はお化け屋敷みたいな家があった。昼間に火事があって燃えた。従兄と一緒に、風呂へいこうとでかけたとき、上六の今の近鉄百貨店にあがったら、お化け屋敷からえらい煙が出ているのが見えた。(地元の方の思い出談)

・市立盲学校⇒ドレスメーカー女学校⇒タイピスト学校へと変遷があった。

・上町中学校を建設するためには運動場にする土地が必要であったため、お化け屋敷と呼ばれる荒れ果てた邸宅(かつては敷地内に堀をほり、泉を造り、能楽堂をたてていた)のあった土地を、土地所有者の代議士からすったもんだのうえ昭和29年に買収した。 

薄(すすき)病院

・明治時代に谷町筋沿いにあった外科病院で、院長の薄恕一氏は「貧乏人は無料、生活できる人は薬代一日4銭、金持ちは2倍でも3倍でも払ってくれ」を通した。薄氏は地元医師会長、府会議長などを務め看護学校・商業学校を設立して教育にも力を尽くした。無類の相撲好きで力士の診察では治療費を取らずかつ小遣いを与えた。力士のひいき筋を意味する「タニマチ」はこの面倒見の良さが語源と伝えられる。

 

トピック編

路地

・空堀にはかつての路地の生活がよく残されている。共同の井戸がある水場や便所があり植木鉢が並べられ、緑が目を楽しませてくれる。路地は住民たちが共同で管理をしており、電灯や溝の管理など様々なノウハウの蓄積がある。また空堀にたくさんあるお地蔵さんも路地の住人たちでお祀りしていることが多い。冠木門がある路地も多く、かつては格子の引き戸や呼び鈴があった。なかには防災面から汲み取り路地や隣接する裏路地にでられるように、引き戸や板壁による切り戸が残っている。

・大阪市が市電のために敷いていた石を、市電を廃止したあと、1枚100円で売っていた。この石を路地にしいたりしていたかもしれない。(地元の方談)

・隣の路地と連結している路地を抜け路地とよんでいた。 

井戸

・井戸の水は水道の水に比べてコクがあってうまかった。夏はつめたく、冬はあたたかかった。夏には井戸さらえ業が「井戸がえ」にやってきて、すんだら、その日は井戸の上に蓋をしてお燈明をあげて清酒に西瓜やそうめん、赤芋などを井戸の神さんに供えた。(地元の方の思い出談)

・地下鉄谷町線をひくための工事で井戸から水が噴き出すのを防ぐため、あらかじめ埋めさせてくれという話であった。地下鉄の工事で地下を掘っていると上に建っている家はカタカタ振動が伝わってきた。 

市電

・「半ちん」制度があて、始発から6時までは片道賃金で往復の券をくれた。(地元の方の思い出談)

・市電はおとなは6銭だった。大正中期頃から市民の足として自動車が登場。1円で市内どこでも走る「円タク」や小型の「50銭タクシー」の登場により市バスは路面を走れなくなる。

・地道の上を走っていたので、夏場は水まき用の撒水電車が「ちんちんちんちん!」と鳴らしながら、埃をおさめるために水をまいていた。電車道で井戸端会議中のおばさんが大慌てに逃げていた水のタンクを後ろに積んでいた。 

●市電駅の「上二」停留所(旧上町二丁目 現上本町1交差点)が長堀通との交差点にあった。

銭湯

・大正から昭和初期にかけてはお風呂がない家がほとんどだったので銭湯がたくさんあった。風呂屋の建物は大きいから少し凝ったものにせんと建物が持たん。扇風機がなかった頃は銭湯の天井には大きなうちわの形のバタバタと仰ぐものがついていた。ラムネ・みかん水が売っていて風呂上がりに飲んだ。(地元の方の思い出談)

・桃谷地域だけでも6~7軒はあった。 

・日之出湯という立派な銭湯があった。

大阪城南惣構堀(空堀)

・豊臣秀吉によって大阪城の南側に掘られた堀(惣構)があった。その堀は水が張られていない空堀だった。 

・もともと大阪城の南は今の空堀商店街の辺りまでの広大な敷地をしめていたが、松平忠明により縮小された。それまでは、城域内に武家屋敷、屯所、武器倉庫、食料倉庫などが点在していた。

その他

●南高校(かつて女学校であった)の前で伊賀焼を売っていた。伊賀焼を焼く様子を前の道路の上からのぞきこんでいた。ここらへんの坂道はとても急だったので、車が通れるように道が整えられたときに家の高さはそのままになっていたので、道路から階段を下りたところに家の軒下があった。ここらへんにはそんなところがたくさんあった。

・骨屋町筋と空堀通りの辻には植木市があった。

・空堀通り南側、骨屋町筋近くの長屋で、瓦屋町に落ちていた焼夷弾の不発弾を燃料にしようと思って持ち帰り、失敗して爆発して4軒長屋が燃えた。

・エールから南へ上る坂は細ーい路地であった。

※掲載内容について

「空堀今昔エピソードマップ」に掲載している内容につきましては、下記の参考文献と「空堀まちなみ井戸端会」(空堀地区HOPEゾーン協議会)が地域の方へ行ったヒアリングを元「からほり倶楽部」が作成しております。

「空堀まちなみ井戸端会」(空堀地区HOPEゾーン協議会)では「空堀今昔絵図 からほり帖」を発行しています。

参考文献>
・「空堀ボランティア養成講座 地図でふり返る空堀の歴史」資料 西部 均
・「大阪市南区桃谷地域の住所表示変更と郷土史」  永田 耕作
・「上町台地百年」 岡本 まさひろ 

当WEBページおよび付属するマップは、上町台地マイルドHOPEゾーン協議会 まちづくり提案選定事業の助成を利用し作成しました。

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